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| 名普請家として知られた丹羽家の技術を尽くして造られた白河城の石垣。 | 盛岡城本丸石垣。南部氏の名城であり、白河城・会津若松城などとともに東北では少数の石垣積みの名城。 | 弘前城の亀石と呼ばれる巨石。巨石の持つ迫力により、武威を誇示しようとしたものであろう。 |
日本の城に石垣はつきものである。城といえばすぐに石垣のイメージが想起されると言っても過言ではない。永久不変の生命を象徴する石は、単に城の防備だけでなく、武将の権力を誇示しようというものとして必要不可欠の存在だったのであろう。そもそも城郭における石垣及び堀の機能は“防御”であった。
近世城郭建築においては、自然地形の利用は少数派であり、平山城や平城では人為的な部分がほとんど。石垣はその中でも非常に重要な構成要素であった。石垣の姿はさまざまである。途方もなく巨大な石垣、曲線的な石垣、直線的な石垣、ゆるやかな勾配を持つ、急峻な石垣。そのそれぞれに意味があり、そしてそれら個々の神秘的な力が城のオリジナリティを形成している。城の石垣は完璧なまでに魅力的である。 城の石垣の前に立つと、迫力というか一種の圧迫感を感ずるのはなぜであろうか。クレーンもない時代にどうやって運んだのかと目を疑いたくなるほどの巨石。実用性以上に巨大さの持つ迫力を醸し出すことを重要視したのであろう。築城時、石垣を一つひとつ積み上げていった作業者の汗や思い、あるいはそれを築いた者の権力欲の残滓。そういったバックボーンの影響もあるだろうが、いずれにしても城の石垣を前にすると、私たちは荘厳な気分にさせられる。軍事目的からスタートした日本の城郭における石垣づくり。その独特の美と迫力は城の魅力をそのまま代弁しているとも言えそうだ。 |
精巧に加工された石はもちろん自然石を無造作に積み上げたような石垣であっても数百年もの長い年月に耐えて、崩壊することなく21世紀の今日にも存在しているのはなぜだろう。それは、やはり石垣を積む技術が優れ、日本固有の文化という高みにまで達してるからに違いない。一口に城の石垣といっても、そこにはさまざまな表情がある。一見自然石のように加工の痕跡の乏しいもの、丁寧に角ばって表面が平になっているもの、勾配がゆるいものや急なもの、直線的であったり、曲線的であったり。石垣を見れば、大方の築造年代が判別するほどである。一般的に自然石っぽく粗雑で勾配のゆるいものが時代が古く、丁寧な仕上げで勾配が急な石垣が新しいといわれている。 |
江戸時代中期の儒学者、荻生徂来は石垣の方法には「野面積み」「打ち込みはぎ」「切り込みはぎ」の3種類があるとしている。まず野面積み。これは大きく割った自然石をそのまま積み上げる方法。外観は石と石の間に隙間が多く粗雑に見え、ともすると壊れやすく思われるが、意外に丈夫である。細長い石材を土の中に横たえて積み、石垣の表面に小型の面しか出さない石積みであるため、奥行きが深く、内部で深くかみ合っているのだ。さらに、その石積みの内部や表面部分の石と石の隙間に栗石という小型の石を詰め込み、水捌けを良くし、石垣のハラミ崩壊を防止している。この方法なら、大雨が降っても雨水は石垣の間からどんどんこぼれてゆくので、水圧は増大しない。このように一見粗雑で荒々しい積み方に見えても実は科学的に見ても合理的なのである。ビジュアル的には、人工的な美しさには当然欠けるが、自然に融和した美しさには捨てがたいものがある。 打ち込みはぎは、積み石の一つ一つの角をたたいて表面を平らに積み上げやすいように加工して、組み合わせたもの。したがって、野面積みより外観は各段に整って見える。隙間には、やはり石を詰める石積みで、最も多い石垣となっている。最も進化した石垣が切り込みはぎである。積み石の一つ一つをのみで削って美しく直線的に加工して、規則正しく積み上げた石垣である。石の形は四角形か多角形。積み石と積み石との間の線が、直線かまたは90度に折れ曲がる連続線を描いている。3種類の中で外観は最も洗練された人工美を醸し出しているが、石垣としての迫力はややおとなしくなってしまうのはやむをえないのだろう。 |
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| 明治2年(1869)版籍奉還が行われた時、日本全国で、なんと186もの城の数があったという。成立直後の混乱状態にある明治政府にとって、城の存在は、内乱の拠点になる恐れもあり、驚異だったのだろう。多くの城が廃城にされてしまった。さらに第二次世界大戦や火災などで焼失し、残存天守閣は現在12基のみとなった。そんな貴重な、かつ魅力的な城、そして石垣を日本全国に探訪してみた。 |
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